SAVE PAKISTAN BANK

パキスタン北部大地
震被災者を支援する団体
『セイブ パキスタン バンク』
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SPBがお世話になっている、日パトラベルの、情熱的なパキスタンでの支援活動を、この本から知ってください。災害の様子をしるという意味だけでなく、社会構造の問題や、アメリカを中心とした、世界の構図に疑問を感じるはずです。事務局長、加藤も、ちょっと写真にうつってます。

地震から半年後の様子

地震から半年後の様子

地震から半年が経過した今、被災者たちはキャンプを去り、それぞれの場所へ帰っていきます。 人々がキャンプを去る時、そして帰り着いた先で、どのような必要に迫られるのかを確かめようと、 パキスタンへいって調べてきました。ここにその報告をさせていただきます。

日程:2006年3月25日〜4月6日(13日間) 場所:イスラマバード、バラコット

感謝、感謝でさようなら!

NWAのキャンプ村を訪れました。被災者たちはちょうど村に帰る準備をしているところでし た。今年の正月に見た、落ち着いて生活している様子とは違い、表情には、自分の場所に戻 る期待感と不安が入り混じっているようでした。テント、寝袋、マットレス、生活用具等など、荷 物を満載し、次々とトラックが出発します。

「そんなに積んで大丈夫なの?」と心配していると、その上に人がひょいと飛び乗って帰ってい きました。驚きましたが、そういう風景は当たり前みたいです。


残された電球が行く人々を見送る

バラコットの奥のヌーリー村から来た人々は、電気のある生活をはじめて体験したそうです。 明るいランプのおかげで夜は快適だったにちがいありません。村に帰って、どのような生活を するだろうと、キャンプを手伝ってきたスタッフが心配していました。確かに一度、便利な生活を してしまうと、この先不自由を感じることもあるかもしれません。

電気のある生活だけでなく、被災者がイスラマバードにいるうちに、NWAは様々な支援をすす めてきました。たとえば、ただ食糧を与えるだけでなく、十分な栄養を摂取させ、元気な体づくり を支えました。キャンプに来たとき、ガリガリに痩せていた人も、いつも寝転んでいたおばあち ゃんも、3月の終わりにはシャンと立っていました。ぷっくり太った女性もいたということです。 人々が太れるほどに、このキャンプの住民はとても平和な気持ちでいられたのではないかと思 います。

子どもたちは、絵を描くことを覚えました。遠足にも行きました。女性たちは十分な水を用意 してもらい、洗濯を楽しんだり、裁縫を楽しんだりしました。テント生活は窮屈だったことでしょう が、人との付き合いがとても温かく、心穏やかな時間であったろうと推測します。

 
子どもたちは安心して遊んでいる

さらに医療や衛生面でも十分な配慮がありました。被災者たちの応急手当だけでなく、徹底 的な虫駆除対策や予防接種、さらには自分の身のまわりや、公共の場所をきれいにしておくと いった衛生指導。被災者たちは、冬の寒さの厳しい場所から避難して暮らし、ただ命をつなぐ というだけではなく、これから生きてくエネルギーを充電したように思います。

スタッフは徹底的に裏方にまわり、被災者たちの自律を促そうとしている姿勢に感動します。 リードせず、支援を続けることの方が、実は難しいことだと思うのです。


子どもが子どもの世話を楽しんでする。笑顔がステキ!

以前にムザファラバードで大きなキャンプを二つ見たことがあるのですが、キャンプを運営す る人たちは、住民の顔や名前を覚えていませんでした。被災者はお客さんという感じです。そ の点で、NWAのキャンプ村は、多すぎず、少なすぎず、バランスのよい、本当の意味での「支 援」を見ることができた気がします。これは、ひとえに在パ歴の長い督永さんらの経験からなし うる業であったように思えます。大地震により、一瞬にして今までの生活を壊されてしまった 人々が、安心して冬を越し、村にもどっていきます。去る人たちは皆、感謝してこのキャンプを 出て行きました。

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マディアという女の子

ヌーリーから来ている被災者の中に、知的障害をもった青年がいました。彼の名はザフー ル。一日中、テントの入り口に座っています。ザフールは重い障害を抱え、人々に支えられて 生きています。おそらく、この震災の影響で、これまでの生活よりも、さらに大変な毎日を過ご すことになるでしょう。


パキスタンの女の子はしっかりしてみえる

キャンプの運営をするメンバーたちが、朝一番にすることは、ザフールへの挨拶です。 「ザフール、今日はこれもってきたぞ。」 堀さんが地面にひざをついてザフールの手を握り、指にリングをはめました。それを見て大喜び。 ザフールはこのキャンプの人々からとても大切にされていました。 妹であるマディアは、ザフールの身のまわりの世話をよくしていました。 ごはんやお茶をつくったり、洗濯をしたり、一日中、忙しそうに働いています。 しっかりした女性だと思っていたのですが、年齢を聞いて驚きました。7歳。 日本でいえば小学1年生です。立派な女の子だと思いませんか?嬉しくなりました。

バラコットへ

3月29日になると、キャンプの住民は全員いなくなりました。 この月、パキスタン政府は、キャンプの経営者に対して、3月31日をもってキャンプを閉じるように要請したそうです。 住民たちが、このままNGOに依存した生活を続けると、自立の機会を逃してしまうと考えたのです。 いつかは終えることになるキャンプです。 この際、はっきりと区切りをつけ、次の段階へと移っていくことは勇気のいることでしょうが、避けられない事態です。 その代わりとして、政府は被災者たちの住宅再建のための費用を用意する姿勢だとうかがいました。

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Action Against Hunger

3月30日、今回の地震被害のもっともひどい地域に向かいました。イスラマバードから4時間。 川を挟んで広がる盆地、バラコットです。

ここでイブラール(マンセラの教師)という名の男に出会いました。彼はACF(Action Against Hunger)という西欧のNGOグループと協力して、幼児に対する支援をしている最中です。現場 を見せてもらいました。

このNGOは、心理学者や医者たちにより設立されたグループです。私が行ったときにはフラ ンス人の心理学者がテントに入り、母親に抱かれて運ばれてくる幼い子どもたちを丁寧に見た り、相談を受けたりしていました。いろいろなNGOがあることは知っていましたが、乳幼児のみ に焦点をしぼって、精神面のケアや栄養指導をするNGOがあることに驚きましたし、多くの母 親が列をつくって並んでいることにも驚きました。殊に、パキスタンでは女性がおもてに出てこ ない国だと思い込んでいた私には、これもとても嬉しい光景でした。

バラコットには、動物医療専門のNGOも入っており、ユニークな発想に、そうした観点も大切だ と、納得させられました。ACFではこの日、生活物資を配給する予定でした。200世帯の人々に クーポンが事前に配られて、手渡し始めます。山から下りてきた人々は、落ち着いた様子で箱 を受け取っていました。


動物も被災している。それを救うNGOもある

トラックから200世帯に生活物資が配布されていた
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案内してくれた男

イブラールの紹介で、地元に通じている方を紹介してもらいました。彼の名前はナビード。イ ブラールとは教師時代の仲間だったとのことです。彼は、バラコットの東側の山間地域の出身 です。私が現地調査をしたいと伝えると、快く、市街地を案内してくれました。

バラコット市街地は始めて訪れたのですが、10月の地震直後の写真を何度も見ています。す べてがペシャンコになったその写真を見て、二度と、この地に復興は訪れないだろう、と思って いました。しかし、意外にもカンハール川右岸沿いは新しい露店が立ち並び、活気に溢れてい ました。


露店にはモノや食べ物が溢れ、人通りも多い

ちょうど、つぶれたモスクに人々が集まり、祈りをささげているのが見られました。


つぶれたモスクの屋根の上で祈りを捧げる人々

高級リゾート地として知られる、カガーン高原への入り口であるこの町は、夏場に多くのビジターで賑わうそうです。 街のはずれに、二つ大きなホテルがあったから、と案内された場所には、何もありませんでした。 すべてが崩れて、川に落ちたようです。このあたりはジープの乗り場になっており、多くのドライバーが待機していました。 ジープがなければ、仕事がはかどらないのか、結構、高い料金を払って荷物を運んでいる人が多くいるようです。

この町にあったモスクも壊滅しています。イスラミック・リリーフと呼ばれる現地NGOによって 仮設モスクが建設されていました。


何よりもモスクが先に建設された

町のいたるところには、水のタンクが設置してあります。人々はこのタンクまで汲みに来て、 運んで使っているようでした。水道はまだ普及していないらしく、現地NGOがこのタンクに毎日 給水を行っているようです。


貯水タンクはいたるところに設置されていた
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学校のあった場所へ

この町では、たくさんの子どもが亡くなった場所を案内してもらい、まわることにしました。

はじめに訪れたのはガラット村の男子小学校です。 この小学校では、全校生徒313名のうち89人が地震によって死亡しました。 教師も2人死亡したそうです。159人が、怪我を負い、いまだ16人がガレキの下に埋まっています。 死亡した子どもの中には教師の子どもも含まれており、仲間の教師もつらい思いを抱いているようです。 仮設テントでの授業風景を見せてもらいましたが、何をするわけでもなく、ただただ皆が集まって座っていました。

この町で一番多くの犠牲者を出した学校はシャイン・パブリック・スクールといいます。 案内されたのですが、すでにそこには何もなく、ナビードも長くは留まりたくない場所だったようだったので、詳しくは聞けませんでした。 おそらく数百人を越える死者が出たのがこの学校だったのでしょう。 4月とはいえ、日中は30度を上回る気温で、埃の上がる町を歩きまわるのはキツイ仕事でした。

シャヒーン私立商業高校の校長先生を訪ねていきました。 アメリカのNGOが校舎をプレゼントすることを決定し、建設に取り掛かっています。 明らかに、他の場所で建設されている建物とは材質が違い、スチールを溶接し、組み立てています。 こういう材料が手に入るのであれば、どんどん使うべきだと思いましたが、 こうした材料は他の場所では一切見ていないことを考えると、何か特別な場所から運んできているのかもしれません。

この建設には240万円の寄付が注がれる予定だそうです。この国の相場からすると相当の 金額をかけて再建しています。日本円では何千万円もの規模の工事です。校長先生は、さぞ 満足しているかと思ったのですが、「備品が足りない。校舎ができても何もできない。」と頭を抱 えていました。


基礎工事が始まっているが、お粗末だ

川石を整然と並べる作業員。だがセメントをかませていない

町の所々では、石を積んで元の形に戻そうと人々が働いています。ところが、また地震が来 たら崩れそうな所が随所に見られます。素人目からしても、あまりにもお粗末な基礎工事が進 められています。石垣をつくっているのですが直立しているのです。日本であれば少し傾斜さ せてつくるものだろうに、一生懸命石を運び、丁寧に縦に積んでいるのです。

商店も仮設のものから、本格的に建設を始めています。しかし、その様子を見て驚きます。自 分たちでブロックをつくり、セメントを塗って積んでいくだけです。「これは危険じゃないか?」と 思わず質問すると、「人が住む建物じゃないからいい。」という答え。でも、昼間は人が入って 働く場所なら、もう少し考えて建てるとよいものを…。これでは石の積み木です。


コストはかからないが、これでいいのか?
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山を登って

ハングライ村へ行く予定でした。この村を目指したのは、写真家の森住さんが行かれた場所 だと聞いたからです。市街地から16km離れた場所に位置しており、中途半端な気持ちではい けないだろうと思い、フライシートと寝袋を用意してきました。それを聞いたナビードが、家の仮 設テントでよければ泊まっていくか、といってくれたので、甘えることにしました。

彼の村は、町から2時間ほど登ったところにあるアルバン村です。位置しています。気を遣っ てもらい、半分まではジープに乗って移動しました。ものすごく険しい坂を上っていくと、地震に よって起きた地崩れや裂け目が見られます。ジープは険しい坂をグングンと登りましたが、途 中でストップし、そこからは歩きとなりました。


地震直後、できた裂け目は何十mも深く真っ暗だったという
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アルバンにて

村に着いたのは夕刻でしたが、少しでも多くの被害状況を見てまわろうと休む間も惜しんで 歩き回りました。ナビードの家は傾き、住むことはできない状態でした。彼は、敷地にトタンと木 材を使って仮設ハウスを建てて、家族と親族と寄り添って暮らしていました。

天井のファンの羽が折れているのはなぜだろうと思いました。 聞くと、地震の揺れで天井にぶつかり曲がったのだそうです。 揺れは相当に大きかったのです。とても美しい家でしたが、残念だけれども、補修することはできそうにありません。 でも、これを崩して新しい家を建築するとなるとお金のかかる仕事になることは明白です。

突然の知らせ

その夜、突然電話がかかってきました。 何度も聞き返す彼の様子から、少し動揺している様子がうかがえます。 電話を切ると彼はこういいました。「ちょっと悲しい知らせがあった….。」 その電話は、バラコットがなくなる、という知らせでした。 4月2日の新聞は以下のように伝えています。

4/2DAWN紙より(一部略 *木村克也さん訳)

「アザド・カシミールとNWFP(北西辺境州)の被災地再建プロセスが4月7日から始 まることがムシャラフ大統領も出席した土曜日に行われた会合で決められました。外国 の専門家によって行われた地震調査レポートに照らして、完全に破壊されたバラコット の町に代わって新しい都市を造ることが決定し、NWFP政府が用地を特定するように 依頼されました。」

NWFPは、バラコットの市街地を丸ごと移転する計画を発表しました。つまり、市街地で生活 を営んできた人々は、強制的に移転しなければなりません。ということは、自分たちの住んでい る場所も引っ越しせざるをえないことになるということでしょう。この発表は市街地のみに限って います。すなわち、山間地域に住む人々は置き去りにされるのでしょうか。

続けて、発表された文章には以下のように記されています。

「アザド・カシミールとNWFPの政府は4月7日から被災者に対し(手当請求の)書類 配布を開始します。10日間の処理期間の後、両政府より全壊の家屋に対してRs75, 000、部分的な破損家屋の再建のためにRs50,000が支払われます。また、このミー ティングにおいて全ての被災家族に対して6カ月間毎月Rs3,000の特別手当金を支払 うことも承認されました。〔銀行振り込みで〕

大統領と首相は、6カ月で支出する45億ルピーが被災者の生活再建の大きな助けに なるであろうと述べ、ムシャラフ大統領は会議での演説で被災地域には耐震構造を持っ たインフラを建設していくことを誓約しました。」

政府は住宅の再建に取り掛かるために、膨大な金額を世帯ごとに支払う準備があると発表 したわけです。ナビードたち、村の住民にとっては、代々、先祖が住んできた愛着のある土地 を離れて、仕事も新しくなり、新しい土地で家を再建する、といったこととなり穏やかではない話 なのでしょう。

そもそも、今回の地震において大激震地であるバラコットは、町だけでなく山間部もレッドゾ ーンになっているはずです。一世帯15人を越える大家族が、突然住む土地を離れ、新しい土 地に引っ越すという話はあまり現実的ではないように思われます。第一、引っ越して家を建て るだけの財産が残っている人は、とっくに問題がないのです。それができずにいる人々が窮地 に追い込まれているのですから、事態は深刻な話なのです。

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住宅の再建

翌日から、この地を詳しく調べて歩くことにしました。 ハングライ村へ行く予定だったのですが、現在ではハングライへの道が復旧し、 NGOがいくつも入り復旧作業を進めていると聞きました。 一方、アルバン村周辺は、地震直後にマレーシア人が聞き取り調査に入ったきり、 一人も調査に入っていないようでした。 外から入ったものといえば、アメリカ軍による、空からのばら撒き支援が届いたぐらいだったようです。

アルバン村、ジャッビ村、ジャンガリ村を訪れました。 ジャンガリ村には、37世帯、ジャッビ村にも約30世帯が住んでおり、ナビードと一軒一軒を丁寧にまわりました。 小さな村とはいえ、一つ一つの家は、すべて崩壊しており、全員が仮設の住まいに住んでいました。

一つ一つの家庭にはそれぞれに悲惨な話があります。 ある家では、外で草刈りをしていて地震に遭い、落石で父親が死亡しています。 父親が亡くなった今、未亡人である母親と3人の子どもが残されています。 他にも父親を失った家庭があります。 稼ぎ手のいないこうした家では、今後、どのように生計を立てて暮らしていくのか? 何か支援を受けて生活していくのでしょうか?3人ともがまだ幼い子どもです。


自宅から木材を掘り出して、整理している

穴を掘り、柱を立てている間に石で固定して立てている

パイプはあるが水は出てこない

所々で、自宅の再建を始めている人々に出会いました。 人々は、土やコンクリートでできた屋根は重量があり、それが人を殺すということを十分にわかっています。 建てている住宅を見ると、細い木材を柱にして、ブリキのトタンを利用し、屋根をつくっています。 柱部分には、適当な太さの木材を購入して使っている家もありますが、改めて購入しなくても、太さが40~50cmはあ ると思われる木材がたくさん転がっています。しかし、これを切る道具をもっていないがために利用できずにいます。

その上、柱を立てる基礎は到底丈夫なものとはいいがたい方法でした。 もっと工夫をする余地がありますし、今ある資材を生かすための道具をできるだけ早く準備してあげられると良いと思いました。

また、水の供給もうまくいっていません。 幸運なことに、この村の上部からはきれいな水が流れてきています。 その太いパイプラインは生きていることが確認できました。 ただ、それが枝分かれしてそれぞれの家庭に引き込んでいくパイプは寸断されているものが多く、 少し努力すれば十分に解決しそうに思われます。

調査で歩いていると、人が寄ってきて、「耐震構造を持つ住宅の再建をしたいが、日本はどう してる?」と聞いてきます。実際には、パキスタン政府が、そのモデルを発表しているそうです が、それがまだ住民たちに明らかにされていないのです。だけど、もし明らかにされたとして も、それをしっかりと実行する気持ちがあるかというと、どうだろうと思います。結局、仮設の建 物をつくるような状況になるような気がします。


残された子どもたち

ウマル君の父は死亡した

家は、すべての場所で全壊しています。ある家庭では、息子が屋根の下に挟まれ、地震の6 時間後までは生きているのが確認できたのですが、その後、死亡したという話でした。また、あ る家庭では、地震のあと、子どもが大丈夫か、すぐに学校まで確認しにいったという話でした。 残念なことに遺体で見つかりました。即死だった、という話です。

5家族が暮らす地域でも、幼い子どもばかりが5人、屋根に押しつぶされて亡くなっています。 子ども4人と大人4人が、まとまって亡くなった家族にも出会いました。

不自由な人々

この地域を丁寧にたずねてまわるうちに、地震が起こる以前から、もともと身体の機能や器 官に障害をもって生まれ、不自由な生活をしている人々がいることがわかっていました。

生まれてから、寝たきりの男の子。ノウマル君は、地震以来、さらに心に深い傷をもったようで す。陽のあたる木陰にベッドを置いて、静かに一日中寝転んでいました。

また、レマット君は、耳が不自由で立つことができないという重複障害をもっており、ただでさえ 急な斜面で暮らしている点で、とても大変な思いをしていると思われました。

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村の学校で

アルバン村とジャッビ村の小学校は、最もひどく壊れていました。柱は一本も残っていませ ん。鉄筋は入っていません。石を積んだ上に、思いセメント屋根をのせていたのでしょう。それ が崩れて、子どもたちの頭の上に落ち、押しつぶしました。


小学校校舎はとてもひどく崩れていた

明らかに手抜き工事だった

何か強度をあげる工夫があったはずだ、とよく見ていると、一本の鉄筋を見つけました。 でも、この鉄筋の長さはやけに短い。強度を上げるために使われていたとは考えられません。 屋根をつくった後で、イミテーションでくっつけられたものだと思いました。 この学校は、政府が建てた学校です。手抜きした上に、偽装建築までしている、ということです。

今回の地震でひどく壊れた建物は、学校、病院、役所、警察所など、公共の建物ばかりでし た。この点で明白なのは、政府の下請けで作業をした会社が手抜き工事をしてきているという 事実です。このために、多くの犠牲者が出たことを考えると、憤りを感じます。

本来ならば、住民の命を大切に守る役割をするはずの官公庁がきっちりと指導をしていかな ければいけないのです。このように、人が大勢集まる公共施設が破壊されたことで、多くの人 がまとまって死亡する事態を招いてしまいました。また、災害時に中心となって機能することが 期待される公共施設が崩れてしまったことは、地震直後に人々の不安や恐怖を煽る結果とな ったと思います。こうした公共機関が未だに回復していないことで、不安な日々を過ごしている のが現状です。

この場所にはユニセフから寄贈されたテントが建てられています。立派なテントです。ただ、 教材や備品は何も届いておらず、その当てもありません。空のテントが2張り、ポツンと立って いました。


教室用テントはあるが、その他には何もない
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トレハ、シャラ村へ

翌日は、別の村へ調査に行きました。こちらの村は、あわせて60世帯ぐらいの人々が暮らし ています。一軒一軒を朝から夕方までかけて、丁寧にまわりました。

土地が比較的なだらかなので、昨日訪れた場所よりも死亡数は少ないようでした。しかし、ラ シャームさん(未亡人)や歩行困難な女性シエナーズさん(25)、目と耳が不自由な女性ムサリ ームさん、両足、両手にずっと痛みを感じている女の子サメラなど、医療が必要な人々が大勢 いました。こうした人々は、地震が理由で苦しんでいるというのではなさそうなのですが、地震 により、追い詰められた環境に生きていることは間違いありません。

地震で柱の下敷きになった男の子や崩れた壁の下敷きになって足を骨折した女性にも会い ました。二人とも、傷は治りかけてはいるものの、とても痛々しい様子でした。傷が綺麗に癒え るのであれば良いのですが、簡単には町に出て行けない地に暮らしていることもあり、何度も 通院することが不可能なので、難しいかもしれません。


地震で傷ついたのは腕と顔。未だに傷が残る

村の中腹に高校が建っていたようですがひどく崩れていました。山の中でも、理科室を備え た堂々とした建物だったようです。

この地域をまわっていると、学校の教師や大学教師が多いことがわかりました。また、裁判 所で働く方や、軍人など、きちんとした職についている人が多いように感じました。市街地から 近いことや、以前から、カガーン高原へトレッキングに入る外国人が大勢やってくることもあっ て、比較的お金をもった家に育った人が多いのかもしれません。


廃墟となった高校。机がならべてあった

町を下る途中に老人に出会いました。つぶれた家の下敷きになり、右腕を骨折し、外傷もひ どかったようです。この国の人々は、出会ったときに握手をするのですが、この老人は手を握 り返せません。傷は治ってはいるものの、筋が硬直して指が思うように曲がらないようでした。 こうした人々には、きちんとしたリハビリが不可欠だと感じました。


腕を骨折した老人の手は自由に動かなかった
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まとめ

パキスタン地震から半年がすぎ、緊急支援は終わりました。被災者たちは、キャンプを出て、 家に戻って生活を立て直そうとしています。Save Pakistan Bank はNWAのキャンプ村を陰なが ら支援してきました。キャンプは、人々の生活を豊かにし、3月末にはすべての住民が元気に 帰っていきました。

SPBの活動は、次の段階に入る時期に来ています。今回、訪れたのは、地震被害のひどい バラコット。山好きが集まり、協力しあい募金を進めてきた経緯があるSPB事務局ですから、 山岳地域の人々を支援できればと考えています。

そこで、調査に入ったのはアルバン村、ジャッビ村、ジャンガリ村、トレハ村、シャリ村です。 想像以上に破壊された家屋、そして悲惨な家族に出会いました。今後、次のような支援をして いくことが必然であると感じています。

<早急にされるべき支援> 1、住宅の再建のための道具提供 2、未亡人、けが人、体の不自由な人々へのケア 3、水の供給設備の補修

5つの村の村長と話をすることができました。彼らが何を必要としているかを尋ねると、「まず 一番困っている人を訪ねていってほしい、私よりもあの家庭は貧乏だから」といいます。災害 は、この地に住むすべての人に襲い掛かりました。しかし、この村の村長たちは、危機的な状 況にいながら、しっかりとしたバランス感覚を持ち、共同体の中で公平に生きようとする姿勢を もっています。

今回、調査を手伝ってくれたナビード自身も、地震で父親と妹を亡くしています。妹は、学校 の教師だったのですが、地震の時に15人の子どもを救い出した後、余震によって崩れてきたコ ンクリートの下敷きになって亡くなったそうです。彼女の名前はナイーダ、現地では「幸福に なる」、という意味だそうです。ナイーダは、いつも村で一番貧しい人のお家を訪ねて面倒を見 ていたそうです。とても思いやりのある女性だったようです。私は、彼女の埋まった墓を眺め ながら、こうした話を聞いていて、この地域に学校を一つ建設するのがよいのではないか、と 思いました。

  

アルバン村のポピー

ところで事後報告となりますが、NWAのキャンプ村で4ヶ月間働いていた木村さんが、村に製 材機を設置する仕事を引き受けてくれました。4月12日、ナビードと一緒に購入し、現在、村に 入って設置をする準備に取り掛かっています。住宅の建設が始まっている今、早急に、何か対 策を考えてあげたいと思い、私の判断で、製材機2台とそれを設置するために必要な材料とし て400$使わせていただきたいと思っています。

ラワルピンディにて木村さんと一緒に品物を確認しましたので、間違いなくお金は使われると 思います。ご了承ください。


加藤 博 2006/04/13
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